おさんぽキャメラ


いつだかに見た夢を思い返す。ローカルを走る電車に乗ってる僕はどうやら遠足の道中で、リュックサックを背負ってる。そして同行の人たちは、小学校や中学、高校の友人から、職場の人達、写真や美術を通して出会った人達。山々が流れ続ける車窓を背景に、本来はありえない組み合わせの皆が、まるでクラスメイトのように話したりしてた。

謎の感染症に侵され、もう4日目。梅雨間の晴れで部屋は蒸し暑い。ずっと寝たきりだから腰も痛いし、睡眠のリズムもおかしい。だから普段は眠っている早朝、とても透き通った鳥のさえずりが窓の外でひびく時間に癒されたりもしている。やらなければならないことがたくさんあるのに、熱はなかなか下がらず、一日一日を棒に振ってしまっている辛さを紛らわすように、つい昔のゲーム動画をぼうっとながめる。

もう20年以上も前になるテレビゲームは、ビジュアルもテキストも細部がまるで無い。そしてそれが今、宇宙や微生物のようにも思える。一昔前のゲーム世界の不鮮明さは、例えばまだ今ほど遠くへ行ってない衛星がみていた土星を連想させられた。ゲームエンジンの表現力と、科学の視力、両者はテクノロジーの進化によってその鮮明さが増していくという点で共通してる。ただ、前者は、人の頭のなかにある”なにか”から創造されていってて、後者は、人ではない別の”なにか”を、覗き込むことでみえてる感じ。

テクノロジーの進化は今後より勢いを増して、それぞれもより鮮明になっていく。一方でドット絵のキャラクターに感情を移入できることも知ってる。おんなじような理由で宇宙も膨張してたりして。

東京では様々な経験をして、たくさんの人たちと出会った。それは自分の良くない部分を再三気付かされることでもあった。気付かされた、と言ったのはそれが東京に来る以前からあった部分だから。この夏に大阪に帰る。けどこうして気付けた経験を無駄にするなら大阪でもなにもできない。人は習慣によって変化していく。変化を獲得することができる。良いところだけでなく、悪いところだって気がつけば、いつの間にかそうなっていた。それは積み重ねの結果とも言えるのだと思う。

ここのところしばらく英語とプログラミング言語とを学んでいる。前者はやむおえずはじめたバイトで必要にかられたことがきっかけで、後者はごく最近からで、AIへの興味、作品のツールとしての可能性、また言語ということ自体への興味が大きい。言語に対する興味は、英語にふれはじめたことでより深まったようにも思う。そしてこの両言語の関係が深いことも、学ぶことの意欲を支えてるような気もする。英語に関しては、中学生の頃はテストが常に1桁で、ア・イ・ウの記号問題が運良く合ってるか合ってないかだけが点数に影響していたようなレベルだった。高校に関しては、なぜか授業があった記憶が全く無い(なかったんだろうか…?)。けど少し分かってくると、もっと知りたい意欲がでてきている。作品をアプローチしていく上でも、やっておいて損は無いと思っている。プログラミングに関しては、単純に社会で生きていく上での技術としても含め、自分との相性の可能性を感じている。もう30歳だけど、自分自身にとっては今が一番若いのだから、まだまだやってみたいことを優先したい。もちろん作品と向き合いながら。今年は複数の展示への出展も決まっている。とりあえずコンペにも出す。

また日記を書くことから離れてしまっていた。けどここに書こうと思ったことに、そういう義務感みたいなものがあるわけでもない。暗室でプリントした作品をセレクトしなければならなかったことも、日記に向かうキッカケだったのかもしれない。4月はいくつかの大きな出来事があって、そのどれもをギリギリのところで通過できたような感じ。気絶しそうなぐらいに辛かったり、絞っても絞っても声がでてこないぐらい恥ずかしかったりもした。自分から動いてみるとなにかが起こる。期待をもってではあまりダメで、それは自分を突き動かすものだった場合におもしろくなる。たぶん小学生の頃からそう感じ続けてる。関西の仲間(勝手にそう呼ばせてください)の存在や、アンドレブルトンが残した言葉なんかに強く励まされながら、いましばらくは自分の作品を形にすることに時間をつかう。

城下浩伺さんの展示を観に北千住のO’keeffeへ。城下さんと出会ったのは確かもう5年ぐらい前。作品を作っている知り合いの人のなかでも、その活動を特に精力的に続けられている方の一人。ケント紙にGペンと墨汁を使って、気が遠くなりそうなくらい緻密な画を描いていて、微視と巨視の二重性を感じさせられる作風も一貫している。

今回の展示も、例えば奥の間にある小作に、それを鑑賞する距離によって見え方が変わることを感じていた。この日の僕には、一見そら豆。すこし近づくとなにかの細胞。さらに近づくと人の群衆のように見えた。それはまず形象の認識にはじまり、距離が縮まることで、その形象の濃度として見えていたものが小さなパーツの集合体として浮かび上がりはじめ、最後は作者の筆跡へと辿りつく。この小作の場合の筆跡は数ミリの線で、真俯瞰で観た時の人の肩幅のような形に見え、線と線との間隔も手伝って、人が集まっている様子にみえたのだった。

ペトリ皿で培養されるカビが形成するコロニーの、その形の一定性とは対照的に、城下さんがキャンバス上に描く形象に均一性はなく、その筆跡の動向は、まるであてどない探求のようでもある。いつ描くことを終わるのかという質問に「ここで終わりかな、というときがある」とおっしゃられていたのも印象に残った。そんな筆跡はまるで作家の”あしあと”にも思える。またそれは画を構成する最小単位という意味で素粒子的、その集合による全体は、ある一つのものが様々な意味に捉えられるという多面性、多層性ということ自体の抽象でもあると感じた。

駅で電車を待っている人たちの多くの視線はスマートフォンに向いている。操作や鑑賞に夢中になっている様子を観ていると、まるで人々が(少なくともその意識は)スマートフォンに吸い込まれていっているように見えた。バイトでVRの体験案内をしていると、体験する人たちは、若い人ほどその仮想現実に意識を自然と委ねる傾向が伺える。たまたまバイト先で観た大手自動車製造工場の現場では、むしろ人が機械の補助をしているような風景があった。人工的につくられた、人間の知性によるそれらのものは、いまや僕らの生活に欠かせない。その”欠かせなさ”というのが、実は僕らに潜伏する菌的ななにかで、一見人間がそれを創り、発展させているように見えて、本当は宿主として利用されていて、欠かせなくなっている、というところまで、そのなにかは順調に増殖してきているんじゃないか。そんなことを想像した。AIは人類という種の子孫で、やがて星を継ぐものになる、みたいな話がずっと頭に残っている。確かに将来脳や肉体に代わるなにかしらが実用的に生まれ、やがて人による操作からの自立もはじまりそう。それは人類の全知を標準装備しているから、それがなにに悩み、なにを思うかを想像できない領域も当然できてくる。犬や猫がなにを考えているのか僕らが完全には把握できないことと同様に。地球が寿命によって、あるいは隕石の衝突とかで消滅するような出来事が訪れた場合でも、肉体という制約の無いAIは生き延びられる可能性がおおいにある。だから人間に思いを託されて、例えばロケットでどこか遠く四方八方へ飛ばされると、着陸したどこかで繁栄を開始できるグループもありそう。それはまるで人類が想像する生命の起源の話に舞い戻るようでもある。