おさんぽキャメラ


勤めていたギャラリーは辞める事になってしまった。意思の疎通が思うようにできず、結果招いてしまった誤解もそのままで、気持ちは今も落ち着いていないところがある。そうしている間に修復保存の仕事も契機満了になった。これから月末までとある古い写真の調査の仕事を挟んで、4月からは今までで一番美術寄りの仕事をはじめることが決まっている。

半年ぶり、一日だけ大阪に帰ると、相変わらず母は元気ではない。白黒の猫は少し老いていて、アメショーの猫は二回りくらい太っていた。向かいで暮らす母の姉の夫が亡くなった。元々入退院を繰り返していて、79歳だった。最後に話した時も元気そうだったけど、身体はしぼんだように小さくなっていた。市場で働いていて、昔振る舞ってくれた伊勢海老が本当に旨かった。

関東に出てくる時、空港まで一緒だった中学からの同級生が今年のはじめに突然倒れて、ずっと入院しているというので見舞いに行くと、目はあいてるし僕をみている気もするけど、脳に損傷があり、認識と認識が繋がらないらしく、意思表示も出来ない状態でベッドに横たわっていた。偶然お父さんがいて、少しずつ良くなってきていると教えてくれたけど、僕自身はじめて出会う症状というか様子だったし、本当に大丈夫なんだろうかと不安になる。夜は元職場の同僚達がお酒に付き合ってくれて、いろいろな話をした。

その後1週間屋久島にいた。彼女がかれこれ半年程そこに暮らしていて、会いにいく為だった。2年ぶり二回目の屋久島は、季節柄か黄緑色の葉をつけた木々が印象的だった。前回はずっと晴れていたけど、今回まともに晴れた日は1日だけだった。陽射しが恋しかったけど、雨に濡れた瑞々しい緑の景色をたくさん見ることができた。彼女が住込みで働いている民宿に泊めてもらい、宿用の車の助手席に乗りながら、写真祭に参加したり、山を散策したり、最近知り合ったばかりという島民の人の家に転がり込んだり、いろいろ案内をしてくれて時間はすぐに過ぎた。

普段写真を撮る時、風景に対してなにかしら異形、異色に感じられるものが視界に入った時にハッとなり写すことが基本だけど、屋久島の山道を歩きながら、その感覚が沸き起こる時、それはあらためて幼少期に虫捕りをしていた時の視覚だと思った。思った、というより、その場にある生い茂った草木の存在によって、思い出した、という方が正確かもしれない。自分と他者を繋ぐ為の行為でもあった虫捕りは、僕の記憶が曖昧な小さい頃にすでに培われていたのではないかと母は言うし、僕も記憶の限りその心当たりは強い。その経験は僕の写真にとっての原体験だと再確認する。

柴田敏雄さんの個展「31 Contact prints」を観に、乃木坂はgallery ART UNLIMITEDへ。2004年頃から転じたというカラー作品の、4×5インチのネガによるコンタクトプリント近作31点。感覚としてはハガキサイズに近く、展示写真としては小ぶりなもの。一枚ずつ、主に余白を広くとったマットで額装されていた。柴田さんの展示作品は基本的に大きい印象だったのでまず意外だった。ネガは4×5なので、135等のベタ焼きのような、写真の前後関係や一連が見えるといった内容では無い。

柴田さんは、風景そのものが持つ一般の意味とは別の表層(それは時に異様な生き物のようだったりする)を写すことを基本姿勢として持たれている印象がある。その異界への眼差しは、大きく引き伸ばされたモノクロームにより、綿密かつ迫力を帯びた風景となって定着されている。一方で今回のカラーのコンタクトは、それらの写真が発する迫力は控えめになる。そこに代わるものはなんだろう。近づいて見ると、粒子が凝縮された高濃度の美しいプリントだし、基本的には引き伸ばしが前提であるネガを、そのまま扱うという意外性、特別性の面白さも勿論あるとは思うのだけど。

展示に寄せた文章を読んで、撮影から印画までの一連にかかる時間について考えた。写真という媒体はこれまでの歴史の中で、その形態の変化を続けている。そしてその時代の集積が人々の価値観を多様にもさせてきた。その背景を十分認めつつ、今回の作品を制作されている側面はあるのだと思う。それは現在からみれば「手間」で、面倒と見なされる悪的な要素があるし、なにより作品のイメージと大きくは関係しないことのように思える。しかし時間はその消費量と比例して、消費者の記憶にも影響する。薄れたり、深まったり、何かへ溶け込み混ざる事もあり、それは制作行為自体へ影響するはずでもある。絵画一つをとっても画材や方法論が無数にある。同じように、写真のこうしたアナログプロセスも、物理的な側面は勿論、経過する時間そのものを扱う一つの技法とも言える。

また、冒頭でも書いた通り、展示サイズが小さい為、これまでの柴田さんの作品を鑑賞するのと同じ距離(つまりその小作をすこし離れた場所)から眺めていると、当然ながら細部は見えなくなる。すると色彩や線、輪郭といった、名辞ではない、それを構成する要素個々の存在が際立ってくる。そうして見えてくる新たな表層は、これまでに観た大作の超現実的なイメージとも重なる実感があってそれも面白かった。これでまた大作を見返す時、また別の見え方も表れそうな気がする。前述した時間のことも含め、こうして「見る」ことの考察を一層促されたのは、それが一枚の小さなコンタクトプリントだったからなのだとも思えた。

美術館を巡っていろいろな作家の作品を見るのが好きです。
改めて知らなかった作品、心に残る作品をさまざまな思いを持って見ています。
作家はどういう思いでこの作品を作ったのか、あるいはどうしてここに収蔵されることになったのか、そしてこれからはどういう評価(扱い)を受けるのだろうかなど?
ある時間を経た作品を見ることは、比較的言葉になりやすいのかもしれません。しかし、逆に自分のいる今という時間がよく見えてくる気もします。
考えてみれば彼らの作品にとって、我々の今という時代は未来だったのです。
現在はすでに直近の過去、アーティストのすべき仕事とは時代に同調することではなくて、昔も今も未来に向けた「オリジナリティー」を創造することにあると信じています。
大きなゆったりとした時間の流れに身を置いて、不可視の未来に向けて自己の制作をする作家の作品があるならば、そういった作品を是非見てみたいと思っています。

(柴田 敏雄/2016年度写真新世紀(第39回公募)審査員からのメッセージより)

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先日は正岡絵理子さんの写真展「羽撃く間にも渇く水」を観に宝町駅を降りて72galleryへ。およそ10年以上撮り溜められたという写真には、生物の生き死にや日常に見える奇異な光景などがモノクロで写されている。イメージはどれもとても強い印象。生(なま)的な鮮烈さのなかに、生(せい)的な温度が煌いているような、独特の迫力を持つものだった。

正岡さんとはじめて知り合ったのが今年の東川、NEXTプロジェクトと題したフォトふれOB・OGらによるグループ展で、その作品を観た時の衝撃が印象に残っていた。その時は確か、展示空間は、旧秋山邸というところの奥まった狭い一室で、天井も低く、白熱電球の赤みがかった光のみが空間をぼんやり浮かび上がらせていた。そしてその壁面中を埋め尽くすように、びっしりと写真が直張りされていたのを記憶している。それらは確かバライタ紙で、一枚一枚は波打っている。でもその外観には写真の内容と呼応するものがあった。空間や照明条件も、写真観賞の一般的な観点からすればよくないはずが、正岡さんの写真とはあきらかに調和していた。

今回の会場はホワイトキューブに額装展示という、いわばもっともベーシックな形式だった。色々な意見や事情もあるのだろうけど、僕個人としては東川で観た展示の方に強い余韻があると同時に、展示をする場所性・空間についてを考えさせられる機会にもなった。

関東に引っ越してきてもうすぐ3カ月。ギャラリーでのアシスタント業務と、資料修復のアシスタント業務をかけもちしつつ、空いた日にティッシュ配りをして収入をやりくりしている。大阪で知り合った作家でフォトグラファーの方や、東川で知り合ったインストーラーの方がそれぞれ単発でアシスタントさせてくれることも時々あって、写真にまつわるあらゆる方面のプロの現場を経験させてもらっているので、仕事時間はかなり充実している。

これから先、この感じをしばらく続けていきたい。続けていくには自分の能力次第というところもあるし、これらの経験は、自分が将来どうやって生きていくのかの貴重な決断材料にもきっとなるから、妥協せず努力を費やしていかなければと思う。一方で、自らを今のこの状況に向かわせた本質にあるのは、自己表現としての自分の写真。仕事の充実とはなかなか両立できていないでいる現状にやっぱりもどかしさがある。

先日観てきた平塚市美術館の「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治 -シベリアシリーズ・原爆の図・地図-」展。

終戦後、シベリアに抑留された当時の経験を元に描かれた洋画。原爆投下後の現地取材を通して制作された日本画。そして川田さんの写真へと続く。このコンテキストが、戦争という共通項のもとにそれぞれの「ちがい」を複雑に交差させていて、単純な三者三様の展示では無い内容になっていた。

洋画の香月さんは、シベリア抑留という強烈な過去があり、白い紙があるとそこに当時の光景が浮かび、そこへ筆を添えるようにして描いているのだという。実際に生々しい強さがその絵にはあって、まさに当時の経験に突き動かされるように生み出されているようだった。また僕自身はそこであらためて、抽象的な作品は、精神性から生まれるものにおいてはそれがむしろ具象であること。記憶や感覚をたよりに描く時、それは写真のようにハッキリしてなくて当然であることをあらためて思う。

丸木位里・俊さんによって描かれた、原爆によって息絶えていく人々を描いた日本画は、その惨事から沸き立つ悲しさや怒りといった要素も含んではいると思うけど、その写実性と経過した時間とが重なってか、こうした出来事が、同じヒト同士によって行われたという、なんというか果てしない虚しさ、憤り、そして滑稽さのような感覚を抱く。またそこに少しだけ、大橋仁の写真を彷彿したりもした。

香月さん、丸木位里・俊さんより後の世代になる川田さんは、当事者性からは距離を置いたポジションから、戦争の痕跡の数々を「地図」という形で写真に残した。その一枚一枚には丸木さんの日本画に通じるリアリティがあり、また香月さんの洋画的な精神性を強く帯びているようにも見える。印画紙に浮かび上がる無数の黒い粒子は、出来事を正確に現す情報であると同時に、混沌とうごめく念的なエネルギーとして定着されているようだった。

川田さんが写した「その後」は、「渦中」による二作品の、現在への橋渡しとして機能していると同時に、その観察者的視点による写真は、出来事の全貌をあらためて少し冷静に、そして多義的に考えるキッカケにもなっていたんじゃないかと思う。写真ではないものが、写真以上に生々しく感じられる体験も個人的に大きかった。方法は違っても、イメージは互換性を持つということが一段と、自然に理解できたような感覚がある。